LOGIN赤黒い布からはみ出した髪が、機材箱の縁を撫でていた。
蓋を閉めようとすると髪が挟まり、引き抜いても別の場所から細い束がこぼれる。怜吾は二度試したあとで諦め、白い市松人形を布ごと箱へ横たえた。
「絶対、さっきより伸びてる」
イオがしゃがみ込み、指先で髪を持ち上げる。
「人形って湿気で伸びるの?」
「繊維が水分を吸えば多少は。人毛なら引っ張られてずれた可能性もある」
怜吾は答えながら、箱の中を撮影した。人形の首は元の向きへ戻っている。座敷に置いた時と同じ横向きで、黒い目にはライトが白い点となって映っていた。
あれほど大きく動いた首を見た者は、この場にいない。
美怜は人形の口へ目を落とした。並んだ小さな歯の間に、燈夜がくわえさせた煙草の葉が残っている。その唇がわずかに濡れているように見えたが、生配信の接続数はまだ二万近くあった。
「白い子ちゃん、確保」
カメラへ笑いかけ、箱の持ち手をつかむ。
「逃げんなよ。今日からうちらの稼ぎ頭なんだから」
人形の髪が手の甲へ触れた。
濡れていた。
振り払った拍子に箱が傾き、中で人形の頭が動く。ごとり、と骨の塊を転がしたような音がした。
美怜は何も言わず、燈夜へ箱を押しつけた。
「重い。持って」
「言い出したやつが運べよ」
「代表でしょ?」
燈夜は舌打ちしながら受け取った。片腕で抱え、わざと上下に揺らす。白い顔が箱の縁から覗き、揺れるたび歯がかちかち鳴った。
五人は荒らした座敷をそのままに、玄関へ向かった。
廊下には、入ってきた時より濃い線香の匂いが漂っている。正面から冷たい風が吹き抜け、消えていた燈夜の煙草から一筋だけ煙が立った。
「外、誰かいる」
先頭を歩いていた怜吾が足を止めた。
開け放した玄関の向こうに、人影が立っていた。
先ほど固定カメラへ映った子どもほど小さくはない。背を丸めた老人が、強い光をこちらへ向けている。懐中電灯に照らされた白髪が乱れ、皺の刻まれた顔には怒りが浮かんでいた。
「おまえら、そこで何をしている!」
怒声が屋敷を震わせた。
イオが美怜の背後で小さく跳ねる。燈夜は機材箱を抱えたまま足を止め、すぐに薄笑いを浮かべた。
「何って、見りゃ分かんだろ。撮影」
「撮影だと?」
老人は上がり框まで踏み込み、泥に濡れた五人の靴跡を見た。その視線が廊下の奥へ移り、倒れた仏壇のある座敷で止まる。
「あれをやったのは、おまえたちか」
「あれって?」
美怜は怜吾へ顎をしゃくった。
カメラが老人へ向く。モニターには、突然現れた侵入者を喜ぶコメントが流れ始めた。
『誰?』
『所有者きた』 『警察呼ばれるぞ』 『廃墟じいさんじゃん』 『この人、ほかの配信者も追い返してた』「有名人だって」
美怜が画面を読み、老人へ笑いかける。
「こんばんは、廃墟じいさん。今、生配信中だから。怒鳴るなら、もっとこっち向いてくれる?」
「止めろ」
老人の声が低くなる。
「今すぐ撮るのを止めて、出ていけ。門の鎖を切ったのも、戸へ落書きしたのもおまえたちだな」
「鎖は最初から切れてた」
燈夜が答える。
「嘘をつくな。夕方にわしが見た時は切れていなかった」
その一言に、五人の間へ短い沈黙が落ちた。
美怜は門前で見た、錆びていない鎖の断面を思い出す。燈夜が切ったのではない。少なくとも、美怜たちが到着した時には地面へ落ちていた。
「だったら、俺らより先に入ったやつに言えよ」
燈夜が吐き捨てる。
「最初から開いてた。入り放題にしといて管理人面すんな」
「わしは管理人ではない」
「じゃあ関係ねえじゃん」
「関係があるかどうかは、おまえが決めることではない!」
老人が一歩踏み込む。燈夜も引かず、二人の肩が触れそうな距離まで近づいた。
「ここは空き家でも、捨て場でもない。人がいなくなった家を玩具にして、仏壇まで壊して……自分が何をしたか分かっているのか」
「説教なら投げ銭してからにして」
美怜が口を挟む。
怒鳴る老人の顔は配信映えした。頬が赤くなり、こめかみに血管が浮いている。接続数が再び上がり始め、二万一千、二万三千と数字が跳ねる。
「ほら、みんな見てるよ。ここの人なら、怖い話の一つくらい知ってるでしょ? 宣伝してあげるから話してよ」
「見せ物ではない」
「何が?」
「ここで起きたことだ」
老人の視線が、美怜ではなく、その背後へ向いた。
燈夜の抱える機材箱。
縁から垂れた黒い髪。
白い顔が、箱の揺れに合わせて少しずつ老人の方へ傾いている。
老人の怒りが消えた。
頬から血の気が引き、懐中電灯を握る手が震える。光の円が壁を滑り、天井を照らし、再び人形へ戻った。
「それを、どこで見つけた」
掠れた声だった。
燈夜が箱を持ち上げる。
「これ? 仏壇の裏。新メンバー」
「置け」
「は?」
「そこへ置け。今すぐだ」
老人の呼吸が荒くなる。先ほどまで五人を追い出そうとしていた足が、今度は後ずさった。
怜吾は人形と老人の顔を交互に映した。変化を見逃さないよう、ゆっくり距離を詰めていく。
「知ってるんですか、この人形」
「箱を下ろせ。髪に触るな。口へ指を入れるな」
「質問に答えて」
「その前に置け!」
怒鳴った声の終わりが裏返った。
玄関の空気が震え、機材箱の中で歯が鳴る。
かち。
老人はその音にも怯えたように肩を揺らした。
「まさか、包みを解いたのか」
「そりゃ、中身見なきゃ撮れねえだろ」
「愚か者が……」
老人の唇が震える。額に浮かんだ汗が眉へ伝い、深い皺の間へ溜まっていた。
「それは人形じゃない」
「どう見ても人形じゃん」
イオが笑う。
老人は彼女を見なかった。
「それは、人の中身で作ったものだ」
コメントの流れが一瞬止まったように見えた。
すぐに、それまでより激しい速さで文字が押し寄せる。
『人の中身って何』
『髪と歯?』 『骨も入ってるってこと?』 『老人の演技うまい』 『やらせ確定』美怜の背筋へ冷たいものが走った。
人形が落ちた時の重い音。人間のものにしか見えない歯。白磁と思って触れた頬が、わずかにへこんだこと。
それらが一本の線で繋がりかける。
美怜は、その線を笑い声で断ち切った。
「人の中身だって。何それ、内臓?」
「髪や歯だけではない」
老人は短く答えた。
「この家で、人形に入れてはならんものを入れた。だから包んだ。見えないところへ閉じ込めた。外へ出さないために」
「誰が作ったの?」
「置いていけ」
「名前くらい教えてよ」
「置いていけと言っている!」
老人が機材箱へ手を伸ばす。
燈夜は身体を捻って避け、その肩を押した。老人の靴が敷石の縁で滑り、片膝をつく。懐中電灯が地面へ落ち、回転する光が五人の顔を下から順に照らした。
「触んな、じじい」
「燈夜、老人いじめは引くって」
イオはそう言いながら笑っていた。
彼女の手元のスマートフォンには、接続数が表示されている。二万七千。二万八千。数秒ごとに更新され、初めて見る数字へ近づいていく。
「ねえ、三万行きそう」
「マジ?」
「あとちょっと。何かやろ」
イオの瞳から、先ほど押入れの指を見た時の怯えは消えていた。画面の数字だけを見つめる目に、機材用ライトが丸く映る。
「白い子ちゃん、ちゃんと紹介してなかったよね」
燈夜の箱へ両手を伸ばす。
人形を胴から抱き上げ、玄関の敷石へ置いた。色の褪せた着物が広がり、黒髪が濡れた地面へ扇状に散る。
老人の顔が強張った。
「やめろ」
イオはスマートフォンを美怜へ渡した。
「全身入れて。縦でも切り抜けるように」
美怜は受け取り、怜吾のカメラとは別の角度からイオを映す。イオは蜂蜜色の髪を耳へかけ、左右で色の違う瞳を大きく見開いた。
「人の中身でできた白い子ちゃんでーす」
靴の爪先で、人形の脇腹をつつく。
「本当に呪われてると思う?」
『やめろ』
『やりすぎ』 『踏め』 『老人止めろよ』 『どうせ偽物』「意見、割れてるね」
イオの唇が楽しげに歪む。
「じゃ、確かめよっか」
右足を上げ、人形の胸へ靴底を下ろした。
柔らかな着物の下から、みし、と細いものが撓む音がした。
「ほら、何も起きませーん」
もう一度踏む。
人形の腕が跳ね、敷石を叩いた。偶然の反動に見えたが、細い指先は何かを求めるように開いていた。
「やめろ!」
老人が立ち上がり、イオへ駆け寄る。燈夜が胸元をつかんで押し戻した。
「見てろよ。人形なんだろ?」
「違う。中にいるものが起きる!」
「起こしてあげようよ」
イオは笑い、人形の顔へ踵を乗せた。
白い頬が靴底の下で傾く。
力を込める。
ぴしり。
白磁のような額へ、髪の生え際から左目に向かって細い亀裂が走った。
その瞬間、幼い声がした。
「いたい」
耳元で囁かれたほど鮮明だった。
イオの足が浮く。
笑顔のまま、瞳だけが左右へ動いた。
「今、誰?」
誰も答えない。
美怜はスマートフォンを握ったまま、息を止めていた。燈夜の手に押さえられた老人も、怜吾も、ちとせも、全員が人形を見ている。
『踏んだ時に子どもの声した』
『女の子が痛いって言った』 『人形、いま泣かなかった?』 『やりすぎ』 『音声仕込んだの誰』怜吾がイヤホンを片耳へ差し、録音波形を確かめた。
「俺の素材じゃない」
「じゃあ、ちとせ?」
イオが尋ねる。
「そんなことしない」
ちとせの顔は青ざめていた。
イオは靴底を見下ろす。泥が付いているだけで、血も傷もない。数秒の沈黙の間に、接続数が三万を越えた。
数字を見た途端、止まっていた口元が再び上がる。
「子どもの声だって。かわいー」
声がわずかに掠れていた。
「もっと鳴ける?」
人形の顔を、今度は強く踏みつける。
ぴし、ぴし、と亀裂が枝分かれした。
開いた唇が押し潰され、口の中から白い粒が飛び出す。
乳歯ほどの小さな歯だった。
敷石の上を二度跳ね、からりと硬い音を立てて転がる。イオの靴の脇で止まり、濡れた光を返した。
老人がそれを見て、声を失う。
やがて喉の奥から絞り出すように言った。
「拾うな」
「誰もいらないし」
イオは爪先で歯を弾いた。
歯は敷石と靴底の間へ消えた。
「もういい。白い子、回収」
美怜は配信へ笑いかけた。
「三万人、おめでとう。呪いはまだ来ませーん」
燈夜が人形の着物をつかみ、機材箱へ放り込む。亀裂の入った顔が上を向き、歯の抜けた隙間から黒い口内が覗いていた。
老人は、もう止めようとしなかった。
地面の懐中電灯を拾い、震える手で土を払う。怒りよりも深い疲れが顔へ広がり、急に十歳ほど老けたように見えた。
「森部忠一だ」
不意に名乗った。
「警察には、わしから連絡する。撮ったものも、壊したものも、すべて話す」
「どうぞ。森部さんも顔売れたし、よかったじゃん」
美怜の言葉に、森部は反応しなかった。
機材箱の人形だけを見ている。
「持っていくなら、覚えておけ」
低い声だった。
「そいつがいなくなっても、探すな」
夜気の中で、線香の匂いが一段濃くなる。
「次に戻ってきても、家へ入れるな」
言い残し、森部は門へ向かった。枯れ草を踏む足音が闇へ遠ざかる。
その背に、美怜が声を張る。
「人形の正体、まだ聞いてないんだけど!」
森部は振り返らなかった。
門柱の前を通り過ぎる時、固定カメラの画面が一瞬だけ乱れた。
老人の背後に、小さな人影が重なった。
映像が戻ると、そこには誰もいなかった。
*
帰りの車内には、湿った土と煙草の匂いが充満していた。
燈夜が運転するワゴン車は、街灯の少ない山道を乱暴に下っていく。曲がるたび、荷室の機材箱が滑り、中から歯の鳴る音がした。
配信はすでに終わっていた。
三万を越えた数字への興奮で、車内の会話は途切れない。イオは切り抜きに使う場面を数え、美怜は通知の増え続ける画面を何度も更新した。燈夜は森部が転びかけた場面を題名に入れろと笑い、怜吾だけが録音された子どもの声をイヤホンで繰り返し聞いていた。
ちとせは最後列で黙っていた。
手首の組紐を親指でなぞりながら、荷室の箱から目を離さない。
「ちとせ、まだ怒ってんの?」
美怜が振り返る。
「別に」
「マスコットにするの、反対?」
「反対しても、もう持ってきたでしょ」
「なら楽しもうよ」
ちとせは答えなかった。
しばらくして、後部座席から硬い音がした。
こつ。
イオが足を動かす。
こつ、こつ。
「何か靴に入った」
座席へ片足を上げ、靴を脱いだ。中を振っても何も落ちない。逆さにして叩いたあと、首を傾げる。
「中じゃない」
靴底を自分の方へ向けた。
街灯の光が窓から差し込み、泥の詰まった溝を白く照らす。
そこに、小さな歯が挟まっていた。
人形の口から転がり落ちた、乳歯ほどの歯。
左右の溝へ根と先端を食い込ませ、厚いゴムへ噛みつくように埋まっている。
「何、これ」
イオの声が細くなる。
爪を差し込み、歯を外そうとした。
白い歯は、引かれるほど深く靴底へ沈んだ。
かちり、と。
もう一本の見えない歯と、噛み合ったような音がした。
斑鳩ちとせが古い資料を抱えて編集部室へ現れたのは、爪の転送経路を追い始めてから二日後だった。大判の封筒が三つ、大学図書館の複写印が入った冊子が二冊、それに角が茶色く変色した古いファイル。いつもの彼女なら何か一言くらい軽口を挟むところだったが、その日は入口から机まで無言で歩き、津守怜吾のパソコンの横へ資料を積み上げた。「何それ」 鬼束美怜が訊くと、ちとせは一番上の冊子を開いた。表紙には地方民俗研究会の名と、三十年以上前の発行年が記されている。学校の怪談や祭礼についてまとめた同人誌に近い資料らしく、紙は黄ばみ、何度も複写された文字の輪郭は潰れていた。「似た話、あった」 茅森イオが椅子から身を乗り出した。「メール?」「もっと前」「どれくらい?」「少なくとも二十年以上前。でも、そこからさらに遡れる」 ちとせの指が目次を滑る。美怜はその仕草を見ながら、また胸の奥へ引っかかるものを感じた。楢守小学校でも、ちとせは怪異の規則を知りすぎていた。赤白の組紐、返事をしてはいけない時刻、記録を壊すことへの警戒。どれも本人は民俗学で似た話を知っているだけだと説明したが、偶然で済ませるには回数が多い。「どこで見つけたの」 怜吾が訊いた。「大学の民俗資料室と、古い地域誌の索引。あと一部は複写を取り寄せた」「いつから探してた」 ちとせの指が一瞬止まる。「チェーンメールが来てから」「二日でここまで?」「索引が残ってたから」 怜吾はそれ以上追及せず、開かれた頁へ目を落とした。美怜には、その沈黙が納得ではないと分かった。 頁の見出しには、《七爪様について》とある。「ななつめさま?」 イオが読んだ。「地域によって呼び方が違う」 ちとせは別の資料を並べる。《爪回し》《七人便り》《七枚送り》《七つ返し》。名称も土地も年代も一定しない。それでも本文へ書かれた内容には、嫌になるほど似た部分があった。「これ」 ちとせが鉛筆で薄く印をつけた箇所を示す。 古い活字。 七人へ伝えろ。 その下。 止めた者が七つ失う。 美怜の背筋が冷えた。「同じじゃん」 轟木燈夜が資料を引き寄せる。「これ、今のメール見て作ったやつじゃねえの?」「発行年見て」「古い本に後から追加したとか」「これは国会図書館にも所蔵記録がある資料。発行自体はチェーンメールが広まるより
七本の爪を失った男が救急搬送された病院から連絡が入ったのは、翌日の午後だった。家族を通じて〈KOWASU〉へ提供された検査資料には、両手の断面画像と、緊急処置で摘出された硬組織の写真が添付されていた。鬼束美怜は編集部室の机へ肘をつき、画面いっぱいに表示された透明な標本袋を見つめた。袋の中には黄白色の薄い板が一本ずつ分けて入れられ、形だけを見れば、どれも人間の爪にしか見えなかった。 津守怜吾は病院側から家族へ渡された説明書類を拡大し、記載された所見を一行ずつ追った。指先から皮膚の内部へ伸びていた硬質物は、骨片でも人工物でもなく、爪甲に極めて近い角化組織だった。七本すべてが、外側から差し込まれた形ではなく、本人の爪床周辺から連続するように存在していたにもかかわらず、通常の成長方向とは逆に第一関節側へ潜り込んでいる。しかも摘出された一本には、爪の先端らしい白い遊離縁まで残っていた。「外に伸びてた爪を、裏返して入れたみたい」 茅森イオがそう言い、すぐ自分の右手を握った。赤白の組紐はまだ手首へ巻かれており、その下の皮膚には薄い圧痕が残っている。鏡やカメラから顔が消えた時ほどではないにせよ、自分の爪へ視線を落とす回数は明らかに増えていた。「でも、本人の爪なら説明は一つできる」 轟木燈夜がソファから身を起こした。彼は画像を見ても怯えた様子を見せず、むしろ原因へ近づいたことを歓迎しているようだった。「変な病気か薬で、爪の生える向きが逆になった。それだけなら怪談じゃない」「本人のならな」 怜吾の声が低くなった。美怜が横顔を見ると、彼は別の資料を開いていた。病院側が家族の同意を得て追加のDNA検査へ回した試料について、暫定的な結果が記載されている。「何」「摘出した七本から、本人とは一致しない遺伝情報が出てる」 燈夜の笑みが消えた。爪そのものは角化した組織で、状態によって解析できる情報量に差があるため、病院側は爪の裏面に付着していた微量組織も含めて調べていた。その結果、七本の試料から得られたDNA型は、いずれも搬送された男性本人のものと一致しなかった。「じゃあ誰の」 美怜が訊いた。「分からない。照合対象がないから個人までは出ない」「七本とも同じ人?」「違う」 怜吾が画面を切り替えた。試料一から七まで、それぞれ別の識別番号が振られている。少なくとも確認
午前零時を過ぎてから、津守怜吾は眠らなかった。新品のスマートフォンへ勝手に送信された二通のチェーンメールと、自分の薬指へ現れた黒い縦線を前にしても、彼が最初にしたのは指を隠すことではなく、これまで集まった受信者全員の記録を一つの表へ並べ直すことだった。美怜が最初に送った七人、西園航平が送った七人、その先で転送した者たち。連絡が取れる範囲だけでも二十人を超え、痛みの始まった時刻、黒線が出た時刻、転送の有無、病院での所見を一件ずつ入力していく。 美怜はソファに座ったまま、母から届いた短い連絡を何度も見ていた。沙和はまだ誰にもメールを送っていない。親指の内部へ伸びた爪状組織は残っており、鎮痛薬を使っても痛みは完全には消えないという。それでも《七人には送りません》という一文だけは変わらなかった。「これ、時間で進んでる」 夜明け前、怜吾が初めて口を開いた。美怜が顔を上げると、三台のモニターに受信者の記録が時系列で並んでいる。黒い点が最初に現れた時刻から、二本目、三本目へ進んだ時刻まで、赤い線で結ばれていた。「どれくらい?」「完全一致じゃない。でも近い」 怜吾は西園航平の記録を拡大した。最初の痛みが始まった時刻、その約七時間後に二本目の爪へ黒い点が出現している。別の受信者もほぼ同じで、六時間五十分から七時間二十分の範囲に収まっていた。「七時間ごと?」 イオが右手首の組紐を押さえた。ほとんど眠れていないらしく、目の下には薄い影がある。それでも自分の指先を何度も確認する癖だけは止まらない。「今ある情報ではそう見える。一度始まると、約七時間で次の爪へ移る」「順番は?」 燈夜が訊く。怜吾は別の表を出した。「最初は人差し指。次が中指。三本目が薬指。少なくとも確認できた十二人は全員同じ」「右手?」「最初に症状が出る側は違う。右から始まる人も左から始まる人もいる。でも同じ手の人差し指、中指、薬指の順番は崩れてない」 美怜は自分の右手を開いた。亀裂の消えた人差し指は綺麗なままだった。自分が七人へ送ったことで、その順番から外れたのか、それとも別の誰かへ続きを渡しただけなのか、考えるほど指先が冷たくなる。 怜吾は表の横へ、確認できた症例だけを抽出した一覧を表示した。航平は最初の黒線から二本目まで六時間五十八分。別の二十二歳女性は七時間十一分、二十四歳男性は七時間
鬼束沙和の右手親指に異常が出た日の夜、津守怜吾は編集部室の机をほとんど占領するほど機材を広げていた。ノートパソコンが三台、通信を切った検証用端末が二台、外付け記憶媒体、回収したワイヤレススピーカー、それに楢守小学校で見つけた八台の隠しカメラ。照明を落とした室内では複数の画面だけが青白く光り、その中央へ例のチェーンメールが表示されている。 美怜は母親が病院から戻ったという連絡を受けてから、何度もスマートフォンを確認していた。沙和は検査後も七人への転送を拒んでいる。親指内部の爪状組織はまだ短いものの、根元から明確に皮膚の内側へ入り込んでおり、鎮痛処置を受けても完全には痛みが消えていなかった。「母さん、まだ送ってない」「その方が比較はできる」 怜吾が画面から目を離さず答える。「比較って言い方しないでって言ったじゃん」「状態を追わないと止め方も分からない」「分かってるけど」 美怜はそれ以上言わなかった。自分が送ったせいで母親の指へ異常が起きているという事実は、知らない受信者から報告を受けた時よりずっと重かった。 燈夜は少し離れたソファへ座り、ペットボトルの水を飲みながら怜吾の作業を眺めている。イオは右手首の赤白の組紐を指で弄り、ちとせだけは窓際で静かに外を見ていた。ここ数日、彼女は美怜たちがメールについて話すたびに口数が減る。「で、何か分かった?」 燈夜が訊いた。「メールそのものに仕掛けがある」 怜吾が答えた。 美怜が顔を上げる。「呪いじゃなくて?」「少なくとも一部は人間が作ってる」 その言葉に、燈夜がすぐ笑った。「ほらな」「まだ全部とは言ってない」「でも人間なんだろ」「監視してる部分は、かなり可能性が高い」 怜吾はメールへ添付されている卒業写真を別画面へ移した。顔を失った児童たちの中央に〈KOWASU〉の五人、その後ろへ白い少女、さらに撮影側へ薄い人影が立つ画像だった。「普通に開いただけだとただの画像に見える。でもデータを分解すると、画像として必要のない領域がある」「何それ」 イオが椅子を寄せる。「隠し文字?」「文字よりコードに近い」 怜吾は解析結果を拡大した。美怜には英数字の羅列にしか見えない。画像の色情報とは別の位置へ、不自然な規則で並んだデータが埋め込まれている。「画像の中に?」「見た目には出ない。普通
美怜が母親へチェーンメールを送っていたことが発覚したのは、四十九人という数字が画面に現れた直後だった。 怜吾が転送経路を少しでも追おうと、五人それぞれの送信履歴を確認し始めた時、美怜の端末だけに七人以外の宛先が一件残っていた。 受信者名には《母》と表示され、送信時刻は昨夜の配信終了から三十分ほどあとになっている。「これ何」 怜吾が端末を美怜へ向けた。責める声ではなかったが、その平坦さがかえって逃げ道をなくしていた。「母親」「見れば分かる。何で送った」「身内でも同じ症状出るのか試したかった」 美怜はそう答えたあと、自分でも少し言葉が軽すぎたと思った。イオが目を見開き、燈夜さえ一瞬笑うのを忘れたように美怜を見る。ちとせは何も言わなかったが、机の縁へ置いた指先が僅かに強張った。「視聴者七人とは別に送ったの?」 イオが訊いた。「うん。七人送ったら私の爪が戻ったでしょ。そのあと、もう一件送ったらどうなるのかなって」「何でお母さんなの」「他人だと経過追えないじゃん。母なら連絡つくし、爪とか歯の変化も分かるから」「歯科衛生士だから?」「そう」 美怜の母、鬼束沙和は四十六歳で、駅前の歯科医院に長く勤めている。爪や皮膚の専門家ではないが、医療従事者なら異常があれば病院へ行く判断も早く、身体の変化を説明する時にも話が通じやすい。 美怜はそこまで考えて送ったのだと説明したが、口にすればするほど、それは母を選んだ理由というより、実験対象として都合がよかった理由に聞こえた。「本人には何て言ったの」 怜吾が訊く。「普通に、今こういうメール検証してるって」「危険性は?」「黒い線が出るかもしれないって言った」「爪が内部へ伸びることは」 美怜は黙った。 昨夜、沙和へ送った時点では航平の断面画像はまだ届いていなかった。黒線が何を意味するかも分からず、美怜自身の爪が楽になったことの方が強く印象に残っていた。だから《これ来たら七人に送ってみて》と、簡単な文章をつけて転送しただけだった。「電話する」 イオが言った。「今?」「当たり前でしょ」「もう夜遅いし」「それ関係ある?」 イオの声が強くなった。美怜は反射的に言い返しかけたが、航平の指の中へ伸びた白い組織が頭に浮かび、スマートフォンを手に取った。 * 沙和は三回目の呼
西園航平が七人へ転送すると決めたのは、救急車を待っている間だった。編集部室の机中央に置かれたから、十九歳の青年の浅い呼吸と、遠くで誰かが玄関を開ける音が聞こえている。右手中指の内部には逆向きの爪状組織が伸び、薬指にも二本目の黒い線が現れたばかりだった。美怜は何も異常のなくなった自分の右手人差し指を見つめながら、爪の裏へ何かが潜っていく痛みを想像しないようにしていた。『七人に送れば、本当に止まるんですよね』 航平の問いに、美怜はすぐ答えられなかった。昨夜、自分は七人へチェーンメールを転送し、その直後に繭守邸から残っていた爪の亀裂と異物感が消えた。ただし一例しかなく、同じことが航平にも起きる保証はない。それでも、何も起きなかったと誤魔化すこともできなかった。「少なくとも私は軽くなった。亀裂も消えた」『じゃあ送ります』「待ってください」 怜吾がすぐに身を乗り出した。誰に送るのか、事情を説明するのかと確認するが、航平は友人へ送ると答えたきり、余裕のない呼吸を繰り返した。次の瞬間には中指と薬指の痛みが同時に強まったらしく、通話の向こうで呻き声が漏れた。『今それ説明してる余裕ないです。また中で伸びてる。三本目まで来たらどうすんの』「でも送った七人にも同じことが起きるかもしれない」 イオが言うと、航平はしばらく黙った。組紐を握るイオの指先も白い。美怜も言葉を挟めなかった。『じゃあ俺に、このまま耐えろって言うんですか』 その一言で、誰も強く止められなくなった。航平は希望してメールを受け取ったが、体内へ爪が生えることまで承知したわけではない。美怜自身、自分の異常が軽くなった安心の裏側で、七人へ何を渡したのかをようやく理解し始めていた。『送ります』 画面の向こうで操作音が続いた。一人目、二人目と航平自身が数え、その後も短い送信音が五回鳴る。七人目を送り終えると、通話には彼の荒い呼吸だけが残った。「痛みは?」『まだあります』 美怜の胸が沈みかけた。二十秒ほどして航平が急に息を止める。スピーカー越しの呼吸まで変わった。『待って。弱くなってる』「どのくらい?」『痛いのは痛い。でも、動いてない。さっきまで爪の下に金属を突っ込まれて、そのまま奥へ押されてる感じだったのに、それが止まった』 怜吾は転送完了からの時間を記録し、感覚だけで判断しないよう念を押