ログイン赤黒い布からはみ出した髪が、機材箱の縁を撫でていた。
蓋を閉めようとすると髪が挟まり、引き抜いても別の場所から細い束がこぼれる。怜吾は二度試したあとで諦め、白い市松人形を布ごと箱へ横たえた。
「絶対、さっきより伸びてる」
イオがしゃがみ込み、指先で髪を持ち上げる。
「人形って湿気で伸びるの?」
「繊維が水分を吸えば多少は。人毛なら引っ張られてずれた可能性もある」
怜吾は答えながら、箱の中を撮影した。人形の首は元の向きへ戻っている。座敷に置いた時と同じ横向きで、黒い目にはライトが白い点となって映っていた。
あれほど大きく動いた首を見た者は、この場にいない。
美怜は人形の口へ目を落とした。並んだ小さな歯の間に、燈夜がくわえさせた煙草の葉が残っている。その唇がわずかに濡れているように見えたが、生配信の接続数はまだ二万近くあった。
「白い子ちゃん、確保」
カメラへ笑いかけ、箱の持ち手をつかむ。
「逃げんなよ。今日からうちらの稼ぎ頭なんだから」
人形の髪が手の甲へ触れた。
濡れていた。
振り払った拍子に箱が傾き、中で人形の頭が動く。ごとり、と骨の塊を転がしたような音がした。
美怜は何も言わず、燈夜へ箱を押しつけた。
「重い。持って」
「言い出したやつが運べよ」
「代表でしょ?」
燈夜は舌打ちしながら受け取った。片腕で抱え、わざと上下に揺らす。白い顔が箱の縁から覗き、揺れるたび歯がかちかち鳴った。
五人は荒らした座敷をそのままに、玄関へ向かった。
廊下には、入ってきた時より濃い線香の匂いが漂っている。正面から冷たい風が吹き抜け、消えていた燈夜の煙草から一筋だけ煙が立った。
「外、誰かいる」
先頭を歩いていた怜吾が足を止めた。
開け放した玄関の向こうに、人影が立っていた。
先ほど固定カメラへ映った子どもほど小さくはない。背を丸めた老人が、強い光をこちらへ向けている。懐中電灯に照らされた白髪が乱れ、皺の刻まれた顔には怒りが浮かんでいた。
「おまえら、そこで何をしている!」
怒声が屋敷を震わせた。
イオが美怜の背後で小さく跳ねる。燈夜は機材箱を抱えたまま足を止め、すぐに薄笑いを浮かべた。
「何って、見りゃ分かんだろ。撮影」
「撮影だと?」
老人は上がり框まで踏み込み、泥に濡れた五人の靴跡を見た。その視線が廊下の奥へ移り、倒れた仏壇のある座敷で止まる。
「あれをやったのは、おまえたちか」
「あれって?」
美怜は怜吾へ顎をしゃくった。
カメラが老人へ向く。モニターには、突然現れた侵入者を喜ぶコメントが流れ始めた。
『誰?』
『所有者きた』 『警察呼ばれるぞ』 『廃墟じいさんじゃん』 『この人、ほかの配信者も追い返してた』「有名人だって」
美怜が画面を読み、老人へ笑いかける。
「こんばんは、廃墟じいさん。今、生配信中だから。怒鳴るなら、もっとこっち向いてくれる?」
「止めろ」
老人の声が低くなる。
「今すぐ撮るのを止めて、出ていけ。門の鎖を切ったのも、戸へ落書きしたのもおまえたちだな」
「鎖は最初から切れてた」
燈夜が答える。
「嘘をつくな。夕方にわしが見た時は切れていなかった」
その一言に、五人の間へ短い沈黙が落ちた。
美怜は門前で見た、錆びていない鎖の断面を思い出す。燈夜が切ったのではない。少なくとも、美怜たちが到着した時には地面へ落ちていた。
「だったら、俺らより先に入ったやつに言えよ」
燈夜が吐き捨てる。
「最初から開いてた。入り放題にしといて管理人面すんな」
「わしは管理人ではない」
「じゃあ関係ねえじゃん」
「関係があるかどうかは、おまえが決めることではない!」
老人が一歩踏み込む。燈夜も引かず、二人の肩が触れそうな距離まで近づいた。
「ここは空き家でも、捨て場でもない。人がいなくなった家を玩具にして、仏壇まで壊して……自分が何をしたか分かっているのか」
「説教なら投げ銭してからにして」
美怜が口を挟む。
怒鳴る老人の顔は配信映えした。頬が赤くなり、こめかみに血管が浮いている。接続数が再び上がり始め、二万一千、二万三千と数字が跳ねる。
「ほら、みんな見てるよ。ここの人なら、怖い話の一つくらい知ってるでしょ? 宣伝してあげるから話してよ」
「見せ物ではない」
「何が?」
「ここで起きたことだ」
老人の視線が、美怜ではなく、その背後へ向いた。
燈夜の抱える機材箱。
縁から垂れた黒い髪。
白い顔が、箱の揺れに合わせて少しずつ老人の方へ傾いている。
老人の怒りが消えた。
頬から血の気が引き、懐中電灯を握る手が震える。光の円が壁を滑り、天井を照らし、再び人形へ戻った。
「それを、どこで見つけた」
掠れた声だった。
燈夜が箱を持ち上げる。
「これ? 仏壇の裏。新メンバー」
「置け」
「は?」
「そこへ置け。今すぐだ」
老人の呼吸が荒くなる。先ほどまで五人を追い出そうとしていた足が、今度は後ずさった。
怜吾は人形と老人の顔を交互に映した。変化を見逃さないよう、ゆっくり距離を詰めていく。
「知ってるんですか、この人形」
「箱を下ろせ。髪に触るな。口へ指を入れるな」
「質問に答えて」
「その前に置け!」
怒鳴った声の終わりが裏返った。
玄関の空気が震え、機材箱の中で歯が鳴る。
かち。
老人はその音にも怯えたように肩を揺らした。
「まさか、包みを解いたのか」
「そりゃ、中身見なきゃ撮れねえだろ」
「愚か者が……」
老人の唇が震える。額に浮かんだ汗が眉へ伝い、深い皺の間へ溜まっていた。
「それは人形じゃない」
「どう見ても人形じゃん」
イオが笑う。
老人は彼女を見なかった。
「それは、人の中身で作ったものだ」
コメントの流れが一瞬止まったように見えた。
すぐに、それまでより激しい速さで文字が押し寄せる。
『人の中身って何』
『髪と歯?』 『骨も入ってるってこと?』 『老人の演技うまい』 『やらせ確定』美怜の背筋へ冷たいものが走った。
人形が落ちた時の重い音。人間のものにしか見えない歯。白磁と思って触れた頬が、わずかにへこんだこと。
それらが一本の線で繋がりかける。
美怜は、その線を笑い声で断ち切った。
「人の中身だって。何それ、内臓?」
「髪や歯だけではない」
老人は短く答えた。
「この家で、人形に入れてはならんものを入れた。だから包んだ。見えないところへ閉じ込めた。外へ出さないために」
「誰が作ったの?」
「置いていけ」
「名前くらい教えてよ」
「置いていけと言っている!」
老人が機材箱へ手を伸ばす。
燈夜は身体を捻って避け、その肩を押した。老人の靴が敷石の縁で滑り、片膝をつく。懐中電灯が地面へ落ち、回転する光が五人の顔を下から順に照らした。
「触んな、じじい」
「燈夜、老人いじめは引くって」
イオはそう言いながら笑っていた。
彼女の手元のスマートフォンには、接続数が表示されている。二万七千。二万八千。数秒ごとに更新され、初めて見る数字へ近づいていく。
「ねえ、三万行きそう」
「マジ?」
「あとちょっと。何かやろ」
イオの瞳から、先ほど押入れの指を見た時の怯えは消えていた。画面の数字だけを見つめる目に、機材用ライトが丸く映る。
「白い子ちゃん、ちゃんと紹介してなかったよね」
燈夜の箱へ両手を伸ばす。
人形を胴から抱き上げ、玄関の敷石へ置いた。色の褪せた着物が広がり、黒髪が濡れた地面へ扇状に散る。
老人の顔が強張った。
「やめろ」
イオはスマートフォンを美怜へ渡した。
「全身入れて。縦でも切り抜けるように」
美怜は受け取り、怜吾のカメラとは別の角度からイオを映す。イオは蜂蜜色の髪を耳へかけ、左右で色の違う瞳を大きく見開いた。
「人の中身でできた白い子ちゃんでーす」
靴の爪先で、人形の脇腹をつつく。
「本当に呪われてると思う?」
『やめろ』
『やりすぎ』 『踏め』 『老人止めろよ』 『どうせ偽物』「意見、割れてるね」
イオの唇が楽しげに歪む。
「じゃ、確かめよっか」
右足を上げ、人形の胸へ靴底を下ろした。
柔らかな着物の下から、みし、と細いものが撓む音がした。
「ほら、何も起きませーん」
もう一度踏む。
人形の腕が跳ね、敷石を叩いた。偶然の反動に見えたが、細い指先は何かを求めるように開いていた。
「やめろ!」
老人が立ち上がり、イオへ駆け寄る。燈夜が胸元をつかんで押し戻した。
「見てろよ。人形なんだろ?」
「違う。中にいるものが起きる!」
「起こしてあげようよ」
イオは笑い、人形の顔へ踵を乗せた。
白い頬が靴底の下で傾く。
力を込める。
ぴしり。
白磁のような額へ、髪の生え際から左目に向かって細い亀裂が走った。
その瞬間、幼い声がした。
「いたい」
耳元で囁かれたほど鮮明だった。
イオの足が浮く。
笑顔のまま、瞳だけが左右へ動いた。
「今、誰?」
誰も答えない。
美怜はスマートフォンを握ったまま、息を止めていた。燈夜の手に押さえられた老人も、怜吾も、ちとせも、全員が人形を見ている。
『踏んだ時に子どもの声した』
『女の子が痛いって言った』 『人形、いま泣かなかった?』 『やりすぎ』 『音声仕込んだの誰』怜吾がイヤホンを片耳へ差し、録音波形を確かめた。
「俺の素材じゃない」
「じゃあ、ちとせ?」
イオが尋ねる。
「そんなことしない」
ちとせの顔は青ざめていた。
イオは靴底を見下ろす。泥が付いているだけで、血も傷もない。数秒の沈黙の間に、接続数が三万を越えた。
数字を見た途端、止まっていた口元が再び上がる。
「子どもの声だって。かわいー」
声がわずかに掠れていた。
「もっと鳴ける?」
人形の顔を、今度は強く踏みつける。
ぴし、ぴし、と亀裂が枝分かれした。
開いた唇が押し潰され、口の中から白い粒が飛び出す。
乳歯ほどの小さな歯だった。
敷石の上を二度跳ね、からりと硬い音を立てて転がる。イオの靴の脇で止まり、濡れた光を返した。
老人がそれを見て、声を失う。
やがて喉の奥から絞り出すように言った。
「拾うな」
「誰もいらないし」
イオは爪先で歯を弾いた。
歯は敷石と靴底の間へ消えた。
「もういい。白い子、回収」
美怜は配信へ笑いかけた。
「三万人、おめでとう。呪いはまだ来ませーん」
燈夜が人形の着物をつかみ、機材箱へ放り込む。亀裂の入った顔が上を向き、歯の抜けた隙間から黒い口内が覗いていた。
老人は、もう止めようとしなかった。
地面の懐中電灯を拾い、震える手で土を払う。怒りよりも深い疲れが顔へ広がり、急に十歳ほど老けたように見えた。
「森部忠一だ」
不意に名乗った。
「警察には、わしから連絡する。撮ったものも、壊したものも、すべて話す」
「どうぞ。森部さんも顔売れたし、よかったじゃん」
美怜の言葉に、森部は反応しなかった。
機材箱の人形だけを見ている。
「持っていくなら、覚えておけ」
低い声だった。
「そいつがいなくなっても、探すな」
夜気の中で、線香の匂いが一段濃くなる。
「次に戻ってきても、家へ入れるな」
言い残し、森部は門へ向かった。枯れ草を踏む足音が闇へ遠ざかる。
その背に、美怜が声を張る。
「人形の正体、まだ聞いてないんだけど!」
森部は振り返らなかった。
門柱の前を通り過ぎる時、固定カメラの画面が一瞬だけ乱れた。
老人の背後に、小さな人影が重なった。
映像が戻ると、そこには誰もいなかった。
*
帰りの車内には、湿った土と煙草の匂いが充満していた。
燈夜が運転するワゴン車は、街灯の少ない山道を乱暴に下っていく。曲がるたび、荷室の機材箱が滑り、中から歯の鳴る音がした。
配信はすでに終わっていた。
三万を越えた数字への興奮で、車内の会話は途切れない。イオは切り抜きに使う場面を数え、美怜は通知の増え続ける画面を何度も更新した。燈夜は森部が転びかけた場面を題名に入れろと笑い、怜吾だけが録音された子どもの声をイヤホンで繰り返し聞いていた。
ちとせは最後列で黙っていた。
手首の組紐を親指でなぞりながら、荷室の箱から目を離さない。
「ちとせ、まだ怒ってんの?」
美怜が振り返る。
「別に」
「マスコットにするの、反対?」
「反対しても、もう持ってきたでしょ」
「なら楽しもうよ」
ちとせは答えなかった。
しばらくして、後部座席から硬い音がした。
こつ。
イオが足を動かす。
こつ、こつ。
「何か靴に入った」
座席へ片足を上げ、靴を脱いだ。中を振っても何も落ちない。逆さにして叩いたあと、首を傾げる。
「中じゃない」
靴底を自分の方へ向けた。
街灯の光が窓から差し込み、泥の詰まった溝を白く照らす。
そこに、小さな歯が挟まっていた。
人形の口から転がり落ちた、乳歯ほどの歯。
左右の溝へ根と先端を食い込ませ、厚いゴムへ噛みつくように埋まっている。
「何、これ」
イオの声が細くなる。
爪を差し込み、歯を外そうとした。
白い歯は、引かれるほど深く靴底へ沈んだ。
かちり、と。
もう一本の見えない歯と、噛み合ったような音がした。
夕暮れの繭守邸は、燃える前から焦げた匂いがしていた。 雨の気配を含んだ風が、伸び放題の雑草を低く撫でていく。庭の中央には、錆びた鉄製の脚立を横倒しにして作った台が置かれ、その上へ白い人形が座らされていた。 黒髪はすでに腰を越え、地面へ垂れている。 鬼束美怜はカメラ越しにそれを見つめ、無意識に奥歯を舌で確かめた。 全部ある。 けれど、歯茎の奥にはまだ鉄の味が残っている。「画角、これでいい?」 茅森イオが三脚の位置を調整しながら訊く。 蜂蜜色の髪を高い位置で結び、今日は黒いマスクを顎へ下げていた。左下の奥歯を失ったためか、笑う時に口元へ手を添える癖がついている。「人形と灯油、両方入ってる」 津守怜吾がモニターから目を上げずに答えた。 左手の小指には黒い布が巻かれている。その下には、本人のものより小さな子どもの爪が生えている。切ろうとしても、刃を当てるたび別の指が痛んだため、今朝から触れていない。 轟木燈夜は、庭の隅から赤いポリタンクを運んできた。「こんだけあれば足りるだろ」「全部かけるつもり?」 斑鳩ちとせが訊いた。「燃え残ったら意味ねえだろ」「意味って何」「完全に壊す。それで終わり」 燈夜は右腕を一度振った。 病院で消えた指骨は画像には映らなくなったが、腕の内側には五本指の痣が残っている。時折、皮膚の下を硬いものが移動するように疼く。それでも彼は、誰にも見せまいと袖を下ろしたままだった。 ちとせだけが、人形から離れて立っている。 長袖の下では、赤白の組紐が皮膚へ沈んでいる。紐の中から生えた細い髪は朝には見えなくなっていた。しかし結び目に触れると、脈のような振動が返ってくる。「燃やした記録ってあるの?」 美怜が訊く。「何が」「この人形。昔、燃やそうとした人とか」 ちとせの視線が一瞬だけ屋敷へ向いた。「知らない」「その間、何」「何でもないよ」 美怜は追及しなかった。 最近のちとせは、知らないと言う前に必ず一拍置く。その短い沈黙を、燈夜も怜吾も気づいている。イオだけは気づいていないふりをしていた。 配信開始まで、あと三分。 怖いなら、壊せ。 いつもの言葉だった。 それなのに、今は喉の奥へ小骨が刺さったように引っかかる。 人形の黒髪が風に揺れた。 一房だけ、ちとせの方角へ伸びる。 ちとせは袖の中
第20話 骨が一本足りない 医師は、モニターに映った白い影を三度見直した。 燈夜の右腕を写した画像には、橈骨と尺骨の間へ細い指骨が絡みつき、関節を曲げた小さな指のように前腕を掴んでいる。さらに手首の内側からは、肉へ繋がっていない六本目の指が伸びていた。 それでも診察室にいた医師は、燈夜の顔より先に機械を疑った。「画像の重なりか、検出器の不具合でしょう」「骨が一本増えてんのに、故障で済ませるのかよ」 燈夜は丸椅子から立ち上がった。右腕を庇うように胸へ寄せている。包帯の下で、爪のない小指が脈打っていた。「通常、こういう形で異物が入り込めば、腫れや発熱だけでは済みません。血管や神経にも影響が出るはずです」「痛えって言ってんだろ」「ですから、再撮影します」 医師の声は冷静だったが、モニターへ向けた指先がわずかに震えていた。 深夜の救急外来は静かだった。廊下を運ばれるワゴンの車輪と、遠くで鳴る呼び出し音だけが薄い壁を越えて響いてくる。消毒液の匂いが鼻の奥へ張りつき、燈夜の苛立ちをさらに尖らせていた。 再び撮影室へ入る。 技師が腕の位置を直し、冷たい板の上へ右腕を置かせる。燈夜は肩を強張らせたまま、機械の四角い影を睨んだ。「動かないでください」「分かってる」 照射を知らせる音が鳴る。 その一瞬、燈夜の皮膚の下で何かが動いた。 肘の内側から手首へ。 細い節を折り曲げながら、肉の中を這う。「待て」 燈夜が腕を引こうとする。「動かさないで!」 技師の声と同時に、白い光が落ちた。 動きは消えた。 再撮影された画像には、異物は何も映っていなかった。 二本の前腕骨。手首。五本の指。 先ほどまで絡みついていた指骨も、六本目の指もない。 医師は安堵したように息を吐いた。「やはり機器側の問題です。最初の画像は破棄して、点検へ回します」「じゃあ、この痛みは何だ」「打撲と爪の損傷でしょう。鎮痛薬を出しますので――」 燈夜は右袖を肘まで捲り上げた。 言葉が止まった。 前腕の内側へ、青黒い痣が浮かんでいる。 一本ではない。 親指を含む五本の指跡が、内側から腕を掴んだ形で残っていた。皮膚の表面を押さえられた痣ではない。肉の奥から外へ向かって指を立て、そのまま強く握り込んだような跡だった。 手首に近い部分には、小さな爪先の形まで浮い
昼の繭守邸は、夜よりも荒れて見えた。 傾いた屋根。雨を吸って黒ずんだ外壁。割れた窓へ内側から垂れる、長い染み。陽が出ているにもかかわらず、庭の奥には薄い霧が残り、裏手の藪だけが夜の続きのように沈んでいた。 午前十一時。 大学を休んだ五人は、スコップと折り畳み鍬、撮影機材を車から降ろしていた。「昨日の配信、百三十万いってる」 茅森イオがスマートフォンを掲げる。 画面には、美怜が眠ったまま土を掘る姿が表示されていた。切り抜き動画はすでにいくつも作られ、赤い子ども靴が出てくる場面だけを繰り返す短い映像が拡散されている。「朝からずっと増えてる。うちの過去最高、普通に超えるよ」「なら、出た場所を掘るしかねえだろ」 轟木燈夜は肩へスコップを担いだ。 右手の小指には厚く包帯が巻かれている。爪を失った傷は塞がらず、皮膚の下へ入り込んだ赤い糸も消えていない。それでも燈夜は手袋を重ね、何事もなかったように機材を運んでいた。 鬼束美怜は車のドアに寄りかかり、靴先を見つめていた。 今日は厚底のブーツを履いている。 昨夜、ベッドの下にあった赤い子ども靴は消えた。 母の沙和が帰宅した時には、床へ乾いた土だけが残っていた。何をしたのかと問い詰められ、美怜は撮影用の小道具を持ち帰ったと嘘をついた。 眠ったまま屋敷へ歩いたことも、視聴者の投票に従って穴を掘ったことも言えなかった。 爪の中へ入った土は、洗っても取れなかった。 黒い粒が皮膚の下へ沈み、爪の奥で赤い糸と絡んでいる。「本当に配信するの?」 斑鳩ちとせが訊いた。 今日は手首の組紐を長袖で隠している。繭守邸へ着いてから、屋敷も井戸も見ようとせず、美怜が掘った場所だけを凝視していた。「するに決まってんじゃん」 美怜は顔を上げた。「私が寝てる間に勝手に配信されたんだよ。だったら、今度は起きてる私たちが続きを見せる」「土の中から何が出るか分からない」「赤い靴でしょ。片方はもう出た」「靴だけとは限らない」 ちとせの言葉に、燈夜が鼻を鳴らした。「だったら余計に撮れ高あるだろ」「人の物が出たら、警察へ連絡する」「出てから言え」 津守怜吾は会話へ加わらず、固定カメラを三台設置していた。 一台は美怜が掘った穴を正面から。 一台は井戸と穴の両方が入る角度。 もう一台は高い木の枝へ固定し、五人
頬に冷たいものが触れていた。 雨粒ではない。 濡れた布でもない。 土だった。 鬼束美怜が目を開けると、見慣れた自室の天井が薄明かりの中に浮かんでいた。カーテンの隙間から朝の光が差し込み、壁へ細長い影を落としている。 枕元では、スマートフォンの画面が明るく点灯していた。 誰かが喋っている。 音量は小さい。囁きに近い声が、途切れ途切れに聞こえてくる。「……右」「もっと、右」「そこじゃない」 子どもの声ではなかった。 読み上げ機能の、温度のない合成音声だった。 美怜は身体を起こそうとした。 両腕へ鈍い痛みが走る。「っ……」 肘から先が重い。肩も、背中も、長く同じ動作を繰り返した後のように張っている。 布団を捲った瞬間、美怜は動きを止めた。 両足が泥だらけだった。 素足の指から踵まで、黒い土が厚くこびりついている。乾いた泥がシーツへ剥がれ落ち、薄茶色の染みを広げていた。 寝間着の膝にも土がついている。 右膝の布は破れ、皮膚が赤く擦れていた。左の脛には草で切ったような細い傷が何本も走っている。 両手を持ち上げる。 爪の中へ、黒い土が詰まっていた。 派手に塗ったネイルは端から剥がれ、一本は中央から割れている。爪と皮膚の隙間に入り込んだ土の奥で、赤い糸が細く脈打っていた。 美怜は息を止めた。 昨夜、繭守邸から帰った記憶はある。 壁の中から舌が伸びた。 頬を舐められた。 六つ目を意味する文字が皮膚へ残った。 その後は、乳歯や爪の入った袋を持たず、帳面だけを機材ケースへ入れ、五人で屋敷を出た。森部を置いて帰るかどうかで燈夜と怜吾が言い争い、最終的には森部を最寄りの交番近くまで車で送った。 自宅へ着いたのは、午前二時を過ぎていた。 シャワーを浴びた。 母はまだ帰っていなかった。 部屋へ入り、スマートフォンを充電器へ繋いだ。 そこまでは覚えている。 今、充電器の先には何もない。 スマートフォンは枕元に置かれ、生配信の画面を映していた。 視聴者数は一万八千を超えている。「何、これ」 自分の声が掠れた。 画面には、夜の繭守邸が映っていた。 映像がわずかに上下している。 撮影者は歩いていた。 背の高い草を掻き分け、屋敷の脇を通り、裏庭へ続く道を進んでいる。 画面の中央に、美怜の背中があった。 薄い寝
第17話 壁の中の子守唄 帳面に浮かんだ「採取開始」の文字は、頁を閉じても消えなかった。 黒布の表紙を透かし、濡れた墨のような染みが五人の名前を覆っている。怜吾は帳面を油紙へ包み直し、機材ケースの最も奥へ押し込んだ。 井戸の蓋は、再び閉じることができなかった。 立ち上がった木板を燈夜と怜吾が地面へ倒そうとしても、裏側から生えた白い指が石の縁へしがみつき、びくともしない。指をバールで叩けば、五人の爪の裏側へ同じ衝撃が返り、赤い糸が肉の奥で震えた。 森部忠一は、もう井戸を見ようとしなかった。「屋敷から出ろ」 何度目か分からない言葉を、掠れた声で繰り返す。「井戸を開けたなら、ここにいてはいけない。日が昇るまで待つな。帳面も置いていけ」「それを持ち帰られたくないだけだろ」 燈夜は右手を押さえながら言った。 剥がれた小指の爪の下から、赤い糸が細く覗いている。土と血で汚れた包帯は、いつの間にか緩み、先端が風もないのに井戸の方角へ揺れていた。「警察に見せたら、あんたらが昔隠したことも全部出る」「出して構わん」 森部の返事は早かった。「ただし、それを屋敷の外へ持ち出せればの話だ」 美怜の親指が疼いた。 爪の下へ入り込んだ糸が、帳面のある機材ケースへ引かれている。赤いもの同士が互いの位置を確かめ合っているようだった。 その時、屋敷の中から歌声が聞こえた。 細く、穏やかな女の声。 夜泣きする子どもへ聞かせるように、同じ短い旋律を繰り返している。 美怜は息を止めた。 聞き覚えがあった。「お母さんの歌」 唇から声が漏れる。 鬼束沙和が幼い頃の美怜へ歌っていた子守唄だった。 美怜が熱を出した夜。雷を怖がり、母の寝具へ潜り込んだ夜。沙和は決して上手ではない歌を、同じ場所でわずかに音程を外しながら歌った。 屋敷から聞こえる歌も、その外し方まで同じだった。「録音じゃないの?」 イオが屋敷を見上げる。 黒い窓の一つに、室内の灯りが映った。 誰も点けていない。 二階ではなく、一階の奥。仏間のある方角だった。「沙和さん、ここに来たことある?」 ちとせが訊く。「あるわけないでしょ」 美怜の声は強くなった。「そもそも、この場所を知らない」 子守唄が途切れた。 夜の庭へ、沈黙が落ちる。 森部が屋敷へ背を向けたまま、震える息を吐い
井戸から噴き出した髪は、地面へ落ちなかった。 濡れた黒い束が生き物の脚のように石積みへ絡みつき、蓋の裏から伸びた白い指を覆い、森部忠一の足首を掠めていく。五人は悲鳴も上げられず、藪の向こうへ後ずさった。 美怜の懐中電灯が激しく揺れる。 光の輪の中で、髪は一度だけ大きく膨らんだ。 内側から、何十人もの顔が押しつけられたような形になった。 額。鼻。開いた口。 どれも黒い髪の膜を破れず、声だけが湿った束の奥で重なる。「まだ見てる?」 「開けて」 「返して」 「ひとつ、もらった」 五人の配信で繰り返されてきた声が、同時に吐き出された。「走れ!」 怜吾の怒声で、美怜はようやく身体を動かした。 燈夜がイオの腕を掴み、藪へ引く。ちとせは倒れた森部の肩を支えた。髪の先端が五人の靴を追ったが、井戸の縁から三メートルほど離れたところで、見えない鎖に引かれたように止まる。 髪は地面を掻いた。 土へ何本もの筋が刻まれる。 その一筋一筋が、文字になった。 おそい。 直後、井戸の中へすべての髪が引き戻された。 ざあっ、と大量の水が落ちるような音がして、裏庭が静まり返る。 蓋は壊れたまま。 無数の釘は泥の上へ散らばり、切れた赤白の糸が草へ絡んでいる。井戸口からは冷気だけが細く立ち上っていた。 森部は地面へ膝をつき、胸を押さえていた。「出た」 掠れた声が漏れる。「とうとう、外へ出た」「何がだよ」 燈夜はバールを握ったまま振り返った。額には汗が浮かび、肩が大きく上下している。「あれが何なのか、知ってんだろ」 森部は燈夜を見なかった。 井戸を見つめたまま、何度も首を横へ振る。「人形師が集めたものだ。骨も、髪も、歯も、声も。捨てられたもの、奪われたもの、戻れなくなったもの……全部を、あそこへ沈めた」「人形師って、屋敷の持ち主?」 美怜が訊く。 口の中には、まだかすかに血の味が残っていた。話すたび、歯茎の奥が疼く。「繭守冬一郎」 森部の唇が、その名を嫌うように歪んだ。「人を写すんじゃない。人の一部を寄せ集めて、人に似たものを作った。あの白い人形も、その一つだ」「帳面は?」 ちとせが突然訊いた。 森部の顔が上がった。 その反応を、怜吾は見逃さなかった。「帳面があるのか」「知らない」「今、あるって顔した」「お前らに